※この記事はJPEEエストニア・アンソロジーVol5に掲載されたゆ(@estonianmania)さんの『神戸、マニラ、ニューヨーク、タリン...JPEE編集長の自由人生』のレイアウトや表記を一部修正したものです。
彼女は時期やキャンパスは被っていないものの同じ大学出身で、普段は『後輩ちゃん』とか呼んでタリンと東京で仲良くしてもらっていました。まだ彼女が学生大学生の一足先にエストニアにいた私に連絡をくれたのが最初でした。これがOG訪問か。
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そして卒業後エストニアにやってきた後輩ちゃんの就活~生活ブログ→ Estonian Mania
後輩ちゃんがやってるお茶屋さん→TOKUBETSU
このインタビューが載っているアンソロVol5(2024)
エストニアについて自由に語るJPEEエストニア・アンソロジーについて
以下インタビュー内容です(語り手:後輩ちゃん)
神戸、マニラ、ニューヨーク、タリン
...JPEE編集長の自由人生
Tere tere!
今回は、JPEE編集長ろうあさんにインタビュー!漫画家、プロダクトマネージャー、そしてグローバルオタクとしてエストニアで活動してきた彼女ですが、今月ついにこの国を去ることに。
エストニアでの七年間、オンライン中心の生活を送りつつ、欧州各地の日本漫画イベントに積極的に参加し、同人活動や趣味を全力で楽しんできたろうあさん。その世界津々浦々な人生を探りました。
*ろうあさんのプロフィール
神戸出身。大学進学と共に上京。大学三年で父の会社のフィリピンオフィス立ち上げを手伝い、卒業後はニューヨークでインターン&バイト。エストニアに移住後、現在は教育系スタートアップのプロダクトマネージャー兼漫画家として活動中。
暗い方がテンション上がる、夜の世界のエストニア
ー普段エストニアで何してますか?
基本仕事して、寝てる。仕事も趣味もオンラインで完結するから、エストニアにいる必要はないけど、この国が気に入って住んでる。
ーエストニアの何が好きですか?
この天気。暗くて寒くて静かで、しんとしてる感じ。誰も「外に出て何かしようよ!」みたいな圧がないから、ひたすら趣味に没頭できる。子供の頃に読んだ夜のファンタジー世界の描写に似た冬のタリンの風景が大好きで、午後三時に暗くなる街並みはそのまま物語の世界みたい。不規則な生活でも太陽を逃した罪悪感がないのもありがたい。
ー漫画家の仕事の方はどんなことしてるんですか?
コロナ前にフランスのイベントで編集者から声をかけられて、原作者付きでWebtoonの作画を担当しないかと。天使と悪魔と人間が一緒に暮らす半ファンタジーの世界を舞台にした作品。気軽に引き受けたら、結局四年かかった。
全二十四話、一話につき四十五パネルのフルカラーは、超大変だった。もうしばらくは趣味でいいかな...。
丸の内OL生活の限界とエストニア再移住
ーそもそもエストニアに来たきっかけは?
最初にエストニアに来たのは2015年。父の会社の東欧拠点設立計画で送り込まれ、2016年2月から本格的に住み始めた。でも、プロジェクトは途中で頓挫して、日本へ帰国。
東京で会社員生活を初めてやってみたけど、本当に三ヶ月くらいで限界を感じた。それでも秋葉原の近くに住んでたし一年間頑張ってみたけど、「どうにかしてエストニアに戻りたい」とずっと思ってた。
ちょうどそのタイミングで父から再び声がかかって、「新しいプロジェクトをエストニアでやらないか」と誘われて、2018年11月にエストニアに戻った。
グローバル・オタク・アドベンチャー
ーろうあさん普段インドア派だけど、海外イベントに関してはめちゃくちゃアクティブに行ってますよね。
Twitterでみんなが原稿やってるのを見て、「くそ日本羨ましいな…」と思いつつ、海外でも出られるイベントがないか調べ始めた。日本語教室とか日本好きの人たちに漫画描いてるって言うと、みんな『Wow!』ってなる。やっぱり海外でも漫画やアニメは強いなって感じてて。
初めて参加したのは2019年のパリのJapan Expo。日本語の同人誌しか持って行かなかったけど、「とりあえず参加できれば、ええやろ」って。そしたらまさかのロスバゲ。乗り継ぎのフランクフルトで荷物が消え、Airbnbに着いたら「パンツはある?大丈夫?」と心配された。一日目はブースに「ごめんなさい、荷物届かなくて何もありません」と英語で書いた紙を置くだけで終了。心を無にして早く寝て、次の日の朝イチで荷物を取りに行って、二日目からなんとか参加できた。
同人誌文化は無いヨーロッパ。しかしオタクの反応はどこも同じ...
それでも、イベント自体は超楽しかった!パリのイベントは規模もでかいくて、日本人参加者は珍しいからみんな「日本から来たの?!」って話しかけてくれる。エストニアからだけど。
同人誌文化はなくて、「これ何?」って同人誌が何かを説明するところから始まる。「え、自分でプリントして作ってるの?」て、日本のイベントだったら当たり前に通じることが通じなかったり。
同人誌がない代わりに、他のブースを見ていたらコミッション(リクエストで絵を描く)の需要が高いのに気付いた。自分もやってみたらかなり売れて、後半はずっとコミッション絵を描いてた。
オタクの反応って国が違っても本質は一緒で、「えちょっと待って、尊(とうと)...!」が海外だったら、「Wait…OMG!」って言ってる。「オタクどこでもめちゃくちゃ待たせるやん」て。そのリアクションを見るのが、本当に楽しかった。このパリで味を占めて、どんどん欧州内遠征するように.。パリ(Japan Expo)三回、デュッセルドルフ(DoKomi)三回、マルセイユ、あとタリン、タルトゥ、リガ。
ーDoKomiとJapan Expoめっちゃ行ってる...
最初のパリで、「日本語かー...」って言って諦めてるフランス人の小さい女の子がいたから、タリンでも印刷所見つけて、自分の書いた『SPY×FAMILY』の日本語の同人誌の英語版・フランス語版作って、普通に同人活動してた(笑)。
ー特に日本と違うなってところありますか?
日本よりブースがでかい。日本は長机半分が自分のスペースで、「高さ作っちゃダメ」とかルールが多い。でもこっちは目立ってなんぼ!フランスで、真っ白な布の上に、作品の周りに薔薇を散らして置いてるブースは、今でも忘れられない。
あと日本だとコスプレは現地で着替えないといけないルールがあるんだけど、こっちはそういうルールがないから、みんな家から着て来てて。パリの会場は空港とパリ市内の間にあるから、電車内で観光客と羽をつけた天使が混在してたりとか。
ー参加費ってどのくらい払うんですか?
イベントや申し込み時期やオプションによって無料から四〇〇ユーロ以上まで様々。ていうかパリはホテル代が高過ぎて。イベントは儲けを出すために参加する感じではないね。今年は漫画の仕事が忙しくて結構我慢した。来年こそはもっと行きたい...!
上京後コミケで出会った、趣味で漫画を描く大人の存在
ー儲けとか関係なしにそれだけ情熱捧げられるってすごいことですね。
大人になったら漫画を卒業しないといけないと思ってたけど、上京して初めてコミケ(コミックマーケット:世界最大の同人誌即売会)に行って、趣味で漫画を描く大人たちがめちゃくちゃ楽しそうにしてるのを見て、「これだ!」と思った。その場で冬コミに申し込んだ。
一時期、出版社の編集者がついてくれてたこともあるんだけど、編集者に出すネームを書くより冬コミの原稿を描く方が断然楽しくて、自然消滅した。
伊藤博文をキャラ化
ー初めての冬コミは、何を描いて出したんですか?
歴史創作ジャンル。特に明治・大正時代や二十世紀初頭が好きで、実際の事件にキャラの心情を加えて、「こんなやりとりがあったんじゃないか」と想像して描いてた。
歴史創作を始めたのは、高校の日本史が明治から急に始まって理解できないことが多かったから。伊藤博文とか山縣有朋とか主要人物をキャラ化して、特に日本の不平等条約改正の流れとかを漫画にした。仲良い子に「これで覚えたで」って見せたら爆笑してた。
上京した後は、ネットの友達に声かけてオフ会したり、自分の好きな明治時代の舞台は東京だから、住んでるだけで東京めっちゃ楽しい!ってなった。自分の好きな人たちが祀られてるから、親戚の墓参りにすら行ったことないのに、青山霊園には3回行ってる。
エストニアに移住するってなった時も、まず『ヘタリア』(国擬人化歴史コメディ漫画)を読み直した。作中では、エストニアは「ロシア」さんの友達で、常にビクビクしてるんだけど。
ー””””友達””””。すごい上下関係のありそうな友達...。
未来への不安が全部吹っ飛ぶ、混沌のフィリピン・マニラ
ーろうあさんがエストニアに来る前の話を聞きたいです。大学卒業後、就職はしてませんよね?
子供の頃から朝起きて学校に行くのが本当に嫌いで、大人になっても会社は九時始まりだって知ったときはショックだった。リクスーもダサいから絶対に着たくなかったし。自分にとっては、自由が無さすぎた。
ー就活しないのも、全然、迷いなく...?
上京すると、バイトでフリーターを続ける人やバーテンダー、ネットで見かける何やってるかわからないけど金のある人、研究者とか色んな人に出会って、「こういう道もあるんだな」と思った。それでも、やっぱり周りからネチネチ言われ続ける「就活しないの?」に、たまに不安に思うこともあったけど、フィリピンで吹っ切れた。
ーフィリピンでは何してたんですか?
大学3年生の時に、お父さんが「フィリピンのオフショアオフィスを開こうと思ってる。1年くらいオープニングスタッフとして行ってみないか?海外だから成長すると思うぞ」って美辞麗句を並べ立てられたけど、いざ蓋を開けてみたら、社員誰も行きたがらなかったらしい。
フィリピンも結構楽しかった!オフィスでは唯一の日本人として、フィリピン人と日本人社員の通訳、エンジニア業務の手伝いとか何でもやってたけど、何もスムーズに進まなくて。やると言ってたこともやらないし、「マジ適当だなこいつら」と新鮮だった。今まで日本で、色々こうしなきゃって思ってたこととか、こうしろって言われてきたことが本当にどうでもよくなってきた。
現地で知り合った一歳年上のフィリピン人の女の子との出会いも大きかった。高校中退して、地方から出てメイドとしてマニラにやってきたけど、雇い主と喧嘩して飛び出して、ガールズバーで働き始め、日本のおじさんと”恋に落ちて”。その日本人のおじさんが彼女を大学に行かせて会計の資格を取らせて、うちの会社で働き始めたの。
大学に行ったらいい仕事に就けるっていう概念がその子には無かったから、すでに2回ドロップアウトしてて、そういうのを見守る意味でも、「歳も近いし仲良くしてやってくれ」とおじさんに言われて仲良くなった。
その子はね、今はもう自立して働いてる。最近久しぶりに連絡があって「あ、これはおじさんと別れたな」と思ったら、その通りだった。
ーそして卒業後は、ニューヨークに...
留学するつもりだったんだけど、卒論の辛さで留学の気力を失って「フィリピンで何とかなったから海外でも働けるかも」とニューヨークでインターンを始めた。ニューヨークって言っても、東京で言ったら京王線の各駅しか止まらない柴崎みたいな場所に住んでた。
インターンのお給料だけじゃ、マフィンすら買えないような節約状態だったから、日本レストランのバイトも始めて、インターンして、バイトして、飲んで、寝ての生活してた。毎日朝4時にメトロに乗って帰ってきてた。その頃のニューヨークは治安が良くて、あったかい電車の中で、みんな寝てた。
知らない日本人6人とシェアして住んでた。みんな働いてるから家にいなくて、ほぼ顔見たことない。バイト先も、家賃も、全部現金でやりくりしてた。こんな生活今じゃ無理だけど、当時は全部が刺激的でニューヨークもすごい楽しかった。
望みは健康と世界平和
ーエストニアを離れるのはなんでですか?
居住権の更新がうまくいかなくて、粘ることもできたけど、もう七年住んで潮時かなと。タリンがコンフォートゾーンになっている感じもあった。
ーその後は何がやりたいですか?
またヨーロッパには戻ってきたい。具体的にはまだ決まってないけど、スモールビジネスで来れるようにしたいな。興味があるのはVR。コロナが明けた後、みんな結局物理的な場所に引っ張られてるけど、どこにいても、寝っ転がりながらでも働ける世界が早く来てほしい。
自分の人生において常に自由に重きを置いてるんだけど、高校で『自由と規律』という本を配られて、「本当に自由になれるのは強い人だけ。地位やお金、サバイバル能力が必要で、弱い人間は規律やルールに従うしかない」と思った。これは、その本の結論じゃなくて、あくまで私が思った結論なんだけど(笑)。
と同時に、自分はサバイバル能力も無いし、弱い人間なんだと思った。でも弱い人間なりに、「自分の自由を最大化できないか」っていうのを考えて生きてきた。学校は大嫌いだったけど、大学まで行ったのは自由を得るための手段。お金が欲しいのも同じ理由。
エストニアの憲法で移動の自由が保障されてるのも、虐げられた歴史が続くと人間そこにたどり着くんだなって思った。
究極に言うと、私の理想は本当に、自分の健康と世界平和しかない。この二つがないと、私みたいなアホな生活は続けられないから(笑)。
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長時間インタビューに付き合ってくれたろうあさんに感謝!そして居座る我々を受け入れてくれたGarden Cafeにも感謝!(5時間くらいいた気がする)エストニア生活でお世話になっていたろうあさんがいなくなるのは寂しいですが、まず出会えたことが嬉しいですね。ろうあさんの飄々としたところが素敵だなといつも思っていましたが、今回その飄々さの裏にある熱い話が聞けた気がします。(熱い人間にしてもいいですか)。また暗いエストニアで再会できる日を楽しみにしています!
文・ゆ
写真・ろうあ
以上!
今回私が脱トニアするにあたりインタビューを申し出てくれ、ダラダラと喋っていただけの内容をめちゃくちゃうまくまとめてくれました。もう私のCVこれでいいよね?って出来なので特別に自己紹介用として公開させてもらいました。
どうもありがとう。またタリンで会いましょう~